めっちゃいい本に出会った。
この本を読んで、久しぶりに内省した内容を書いてみたくなった。
この記事は筆者個人のことを書くので、興味ない方はすっとばしてください。
生まれてからずっと抱えていたモヤモヤ感
生まれてこのかた、ずっと心にくすぶるモヤモヤ感があった。
何とも言葉にしづらいのだが、そのモヤモヤはいつも心の奥底にあって、ぼくを裏で支配しているような気がしてならなかった。
何をしても、すぐに虚しくなってしまう。
恋愛しても、レギュラ-をとっても、受験に受かっても、就活で成功しても、虚しさは消えなかった。
ぼくは今まで、目標達成に向けて「死に物狂いで」努力したことがない。
そこそこ得意なことにだけ注力し、そこそこの成果を出してきた。
しかし、全部、自分の中で「そこそこ」な感じがあった。
常に不完全燃焼。不満。不足。
なぜそこそこに甘んじてしまうのか。
それは、「目的を達成したところで虚しい」と直感していたからだ。
哲学者の中島義道さんが著書『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』で次のように言っている。
たとえきみが医者や弁護士、消防士や看護師など人のためになり真にやりがいのある仕事を見つけたとしても、人生の虚しさに変わりはない。-本文より
実感値としては、この主張と似ている。
だからこそ、頑張りきれない。
中学で初めて彼女ができたとき、大切に仕切れずフラれてしまった。
部活は中高共にレギュラ-だったが、大きな大会にはいけず。
受験も、第一志望には落ちて第二志望の大学へ。
「そこそこ努力する」エネルギ-は湧くのに、すぐに充電切れをおこし、後一歩、踏ん張れない自分がいた。
立花岳志さんとの出会い
大学時代も、自身の心のモヤモヤが消えなかった。
年齢を重ねるごとに成熟していくのかなと思いきや、ぼくの内心は子供の頃と何ら変わらなかった。
2年生の時、ぼくはブログに夢中になっていて、いろんな人に教えてもらっていた。
そして、その中の一人が、大人気ブログ「No Second Life」を運営されている立花岳志さんであった。
立花さんにブログを教えてもらおうと思って何度かお会いしていたのだが、セッションはだんだんぼくの「内面」に向けられていった。
イヤ、ぼくが自分の内面の話を始めたのだ。もしかしたら、誰かに理解してほしくてたまらなかったのかもしれない。
そこで、ぼくは自分の精神の根っこの在り方を理解することができた。

今でも立花さんには感謝しまくっている。
というか、カウンセラ-の資格を持つ立花さんにとってはお手の物だったのかもしれない。
幼少期から抱えていた「悲しみ」
詳しくは別記事に譲るが、結論から言うとぼくは大きな「悲しみ」を幼少期から抱えていた。
確かに、思いあたる節はいくつもあった。
ぼくは幼少期に海外に住んでいたのだが、まず、父親が非常に忙しく、一緒に遊んでくれた記憶が少ない。
また、母親も不在の時もあり、その時にイラン人の家政婦と時を過ごしていた。
その時を思い返すと、泣いていた思い出が、どんどん脳裏に浮かんできた。
幼少期は自我の形成に不可欠な期間であり、その際に両親が安全基地としてそばにいないと、子供の精神状態に大きな影響を与えるそうだ。
その時、ぼくは「自分が愛されない人間である」と思い込み、愛されるために優等生を演じるようになったのだ。
幼稚園では必ず相手に「君付け」し、先生から「礼儀正しい」と評価されるよう頑張った。
小中高と部活と勉強を両立し、団体メンバ-として活動しつつ有名私立大に合格するまで頑張った。
しかし、それは自分本位の欲求ではなく、他人本位で「誰かから注目されたいから」頑張っていたにすぎないのである。
ぼくには愛情が不足していた
大学時代にも、愛情を埋めるためにいろんなことに取り組んだ。
FBやTwitterの投稿、周りがやっていない珍しいアルバイト、海外インタ-ン、ブログ、バンド。
どれもこれも、知的好奇心以上に「誰かからの賞賛」を求め、刹那的に快感を得続けてきた。
しかし、何をやっても心が満たされることは一切なかった。
幼少期から「愛されるはずがない」という無意識下の信念のもと、愛情の不足に大学生になってまで苦しんでいたのだ。
精神学者のフロイト曰く、人間の精神は無意識が9割を占めるという。ぼくたちが意識できることは実は1割程度にすぎない。
「人は知らず知らず、無意識の領域に突き動かされている」というのがフロイトの主張だ。
ぼくは9割を占める「人に認められたい、愛されたい」という欲望に突き動かされていたのだ。
立花さんとのセッションでこのことが判明し、突如として心の中の「モヤモヤ」が消失した。
愛情で満ちてきている実感
その後、驚くほど精神的に安定した日々を送れている。
もちろん落ち込むことはあるが、すぐに安定する。
精神的なクッションができた、という表現が適切だろうか。そんな感じ。
ただ、まだまだ「いい子でいること」を至上と思い込んだ22年の思考回路は完全には断ち切れず、無理してしまうことが多い。
今の目標は、この思考回路自体を完全になくし、楽しい世界観で生きることだ。
自分を満たしきった後、世界がどうみえるか知りたい
で、本日一番言いたかったのはこの部分。
ぼくは、自分を満たし切った後、世界がどうみえるのか、これを知りたい。
今まで満たされないベ-スで生きてきたからこそ、普通に満たされた人の視点から、世界を見たいのだ。
心が満たされてきた証拠だろうか、ぼくは最近「愛したい」と思えるものが以前より格段に増えた。
その対象は、例えばこのブログであり、バンドであり、仕事であり、そして大切な人だったりする。
自分が満たされているからこそ、他者を愛せる余裕が生まれる。器が大きくなる。
感謝の念も自然と出てくる。
ぼくは両親に大切に育ててもらった実感もある。家族旅行や手料理、毎日の家事、そして大学生活の資金援助。
それらは全て、ぼくに価値を感じているからこそ、投資してくれているに違いない。
そうやってポジティブな面に自然に目がいくようになった今、ぼくは生涯をかけて恩返ししたいと思うし、自分が愛する仕事を徹底し、愛する人と幸せになりたい、と強く思っている。
Mr.Childrenの『名もなき詩』の中にこんな一節がある。
愛はきっと奪うでも与えるでもなくて気がつけばそこにあるもの
欠乏感を抱えた人生を送ってきたけど、今、この歌詞が胸にしみる。
全て、そこにある。
満たされた人生を噛み締めて、ぼくはこれから強く生きる。
辛いこともあると思う。
けれど、表面上の出来事は全て「事象」にすぎない。
そこに、自分なりにポジティブな解釈を加えればいいだけの話。
あるがままで満ち足りているんだから、どんなことが起こっても大丈夫だ。
しなやかに、したたかに、生きていくぞ。